豊臣秀吉は天下人になれたが晩年認知症で墓穴、そこを家康に付け込まれる

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●天下統一時が秀吉の絶頂期で誇れる時代その後は惨めで不名誉な晩年に●

 秀吉は53才で北条家を滅ぼして天下統一を実質的に完成しました。
その後が公私に渡り、評価を下げる言動が続いた、

その原因は何か、認知症と性格に有ったとされています。本当に?

 

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認知症と未熟な性格が家族と世間を惑わした暗い晩年●

その天下統一から63才で死去するまでの晩年に向かう10年間は認知症と秀吉自身の性格により家族・側近はもちろん朝鮮半島の人々にまでも大変迷惑をかけました。

それはめぐりめぐって豊臣家と溺愛した秀頼の滅亡につながりました。秀吉の気質を天下人になってからは戒める敵・脅威なくなり、いっそう幼児の如くわがままで喜怒哀楽を抑えられない、どうしようもない短期、戦にても昔は才気あふれながらも、朝鮮出兵は単に冷徹なる外国侵略であったようです。信義無く

それを寧々や弟秀長、家臣の石田三成真田信繁等の側近が支えて対面が保たれていましたが晩年はサポートの限界を超えた状況でした。

しかし彼らはそれを殆どの場合、知りつつも止められず例えば捨松の出生に関する落書き事件で無実の人々を極刑に、甥秀次一門の惨殺、朝鮮出兵、キリシタン狩り、関ヶ原の戦いをなし、破れ家康に天下を渡さざるをえない遠因を53才頃から始まったと思われます。

豊臣家は滅亡の直接的原因は関ヶ原での敗北ですがその原因は味方陣営で起きた裏切り行為です。その張本には小早川秀秋、秀吉の正妻寧の甥が徳川の東陣営に寝返ったからです。豊臣陣営西軍は元々、一体化が不十分でした。中心者石田三成には人徳が乏しかったのです。その遠因は秀吉の晩年での愚政にあり人心が離れてしまいました。

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織田信長に出会えたからこそ豊臣秀吉は天下人に●

 豊臣秀吉は17才で織田信長に仕えて、立身出世のいち口を見出しました。大農家ではなく、一介の水飲み百姓のちょっと気の利くおもしろい青年でした。

信長の常人を超えたうけつの感性に秀吉は馬があったのか、いくさ毎に秀吉の才気あふれる行動を信長は高く評価しました。そして遂には家臣の中で最も頼れる大名となり中国地方の覇者毛利家を討伐を43才の時に命じらその地で戦っていた時に明智の謀反をしりました。

彼はこの氣を最大限に活かし明智光秀は勿論、織田家臣誰もが想像すら出来ない、速さで主君の仇討合戦に45才で大勝し天下人への道を53才で関東の覇者北条氏政征伐で完成しました。

●まとめ●

今でも豊臣秀吉は多くの人々に愛されてきた庶民派的太閤殿下と言われいますが、実は晩年には病に侵されて無実の人々を殺害したのろいを受けて死に対する恐怖心におびえる惨めな英雄でした。

秀吉の家族と側近達の責任は重大、身を挺して例えば、落書き事件関係者殺害、秀次一門の殺戮、朝鮮出兵、キリシタン狩りを阻止すべきでした。これらは晩年の10年以内に許されない暴挙でした。それは天運を失い、民意から恨まれたので、その後豊臣家は没落の一途は因果応報です。その意味で秀吉は長生きし過ぎたようです。  

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