水俣病の症状と感染者の現在。発生の原因はチッソという会社にあるのか?

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水俣病患者を見舞う三木武夫環境庁長官(1973年提供:毎日新聞

1945年8月15日の終戦から日本は米国駐留軍の管理下ながらも戦時下での物心両面の束縛から開放されて、物不足ながらも全国民が一丸となって日々の糧を得るために必死でした。

食べ物不足で皆が飢えていながらも殺し殺される戦時中よりも夢を持って生き抜いた時です。そして米軍の支援物資や冷戦下で日本を極東の自由圏拠点としての発展政策で多くの公共工事が実施され戦後わずか約5年で発展の産業基盤が揃いつつありました。

そこに1950年お隣の韓半島で起こった不幸な同族間戦争、朝鮮動乱は日本に莫大な特需をもたらし、遂に戦前基準を超えて高度経済成長に邁進する時代を迎えました。多くの国民が敗戦で傷ついたプライドと自信を取り戻しつつありました。

改めて日本の公害問題の起点になった水俣病の症状と感染者の現状を知りたいと思います。そして問題の発生原因はどこにあったのかを考察してみたいと思います。 

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水俣病の症状

水俣病の病名は、病状が最初に発生した地域名に由来します。熊本県水俣湾周辺で1956(昭和31)年5月に、新潟県阿賀野川流域で9年後 (昭和40)年5月に発見されたものです。

症状は中枢神経系の病気で四肢末端の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄きゅうしんせいしやきょうさく中枢性聴力ちゅうすうせいちょうりょく障害が主な症状です。手足が異常な折れ曲がり状態となり物を掴んだり、歩く事等の生活全般が困難な状態です。更に脳神経が侵されて脳性小児麻痺のような症状です。

 感染者の現在

水俣病は発生より60年以上が過ぎので過半数の患者さんはなくなりました。生存されている患者さんは専門の治療を継続的に受けておられますが治らない病気なので、本人は勿論、ご家族も明日に希望を持って生きることが困難な立場でご同情申し上げます。

他方、公害病患者ではない我々は健康のありがた味と責任を感じ、行政府・企業の動向が同じ過ちを繰り返さない様に意識して注視する使命があると思います。

発生の原因はチッソという会社にあるのか?

 熊本県水俣市に起こった奇病は新日本窒素肥料株式会社水俣工場が作るアセトアルデヒドの製造過程で使用した化学反応促進剤の水銀が汚水処理施設より垂れ流されていました。それが水俣病の元凶として認識されるまで10年間以上、放置されました。

そこにいた殆どの魚は薄い濃度の水銀化合物を吸収しただけなので不幸にして死なず、人々は海水汚染を小魚・猫・カラスの異常事態死からは理解できず、問題を継続してしまいました。小魚が接種された水銀は食物連鎖により水銀濃度が高められ、それを食べた地元の人々の中には水銀中毒症状に似た病状が老若男女に徐々に発生して奇病と評されました。 

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原因の断定は困難でした。なぜなら水俣工場と同じ製品を作り水銀汚染物も全国7箇所、海外で20箇所以上有りながらも被害報告はこの地域のみでした。戦前からの操業はながら症状が現れたのは戦後になってからです。ではなぜこの地域の戦後だけ?

その理由は戦後の生産量は戦前の数倍、また製造過程での水銀触媒の取扱が異なる。

日本窒素肥料㈱は技術力に優れていたので日本経済が高度成長期を迎え大量の需要に応えるべく地域住民を多く雇用して、税金も市財源の半分を占める程の強大な影響力を地元に持っていたことから、その会社を訴えたり非難することは当初は考えられませんでした。事件当初、地元の数少ない優良企業を市も失いたくなかったので被害者側よりも企業側に近かった様です。そうしたことも原因の特定化に長時間を費やした理由と思われます。

まとめ

終戦から10年間位はなんでも良いから食べられる事が優先した時、逆にこの時は餓死者がいた時、公害を防げなかったのは一刻も早く豊かに成りたい人々の焦り、性急さ。

無実の人を間違って有罪にすることを出来るだけ避ける為に「疑わしきは罰せず」という常識が法曹界にはあります。公害問題に関しては「疑わしきは原因が判明するまで製造停止」という姿勢が被害の拡大を防ぎ被害者の人権を守る近道と思えます。

何十年の時と何千人もの人体実験結果が無いと結論・再発防止ができなかった公害事件は悲惨で苦痛なる忘れてならない貴重な歴史です。   

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